日本の古時計/播陽時計

#09 播陽時計
形式 本金四ツ丸ダルマ
年代 明治中期
製造 播陽時計製造会社
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:54cm
材質
その他 時打ち、

 播陽時計製造会社の本四ツ丸ダルマはイングラハム社の本四ツ丸ダルマと酷似している造りになっているが上下の丸い枠の間が狭いのが特徴で、両横の小丸との距離も狭く他社の本四ツ丸は比較すると上下枠との距離間があり播陽時計との違いである。

 この金四ツ丸は金箔も厚く程度は中位、文字盤の取り付けはイングラハムと違い文字盤取り付け位置が彫り下げてなく真似したわりにはこの部分は似ていない。

 文字盤はオリジナルで播陽時計のロゴマ-クが印刷された紙文字盤がついている。  花文字で「B、C、C」 は 「播陽クロック、カンパニ-」の頭文字か。

 本体下部の造りは少し他社の時計と違い、鋸の刻みを入れて板を円形にするイングラハム式造り方でなく日本式曲げワッパの要領で薄い板二枚を曲げ空間を造り上から薄い一枚の板でふさがれ円形の本体が造られている。

 機械地金板は少し幅が広いように感じられ、数取り車は二番車に取り付けられていて全体の歯車の歯先はやや丸みがある造りになっている。

#11 播陽時計2
形式 本四ツ丸ダルマ刷毛目模様
年代 明治中期
製造 播陽時計製造会社
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:54cm
材質
その他 時打ち、

 播陽時計製造会社の刷毛目模様の本四ツ丸ダルマは珍しい部類にはいり、現存数は金四ツダルマより遥かに少ないのは何故であろうか余り製造されなかったのか。

 時計の程度は非常によく本体表面の光沢もありイングラハムには無い刷毛目模様、文字盤の取り付け部分は金四ツ丸と違いイングラハムと同じ取り付け方法で少し彫りり下げてある。

 本体下部の造り方は金四ツ丸と造り方は同じようであるが少し幅広で曲げワッパの木材部二枚の間に蓋がされている点が製造の違いか指針はかわっているようだ。

 機械は金四ツ丸と余り変わらないが雁木車の歯先が少しとがっている点でありプレスが違うのか、それともプレスが磨耗して後からの製造かは区別しにくい。

#11 吉沼時計3
形式 本金四ツ丸ダルマ
年代 明治中期
製造 播陽時計製造会社
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:54cm
材質
その他 時打ち、

 この本四ツダルマは全体の造りが良く外枠など部分部分がスッキリと出来上がっているようであり、播陽時計製造会社の時計としては製造が軌道に乗った一番良いときに製造さもた物か。

 文字盤もオリジナルの物がつき播陽時計のロゴも綺麗に残り製造所を示す振り子室のラベルはだいぶ薄くなってはいるが文字はハッキリと読み取れロゴも確認できる。

 播陽時計は何故かしら金四ツ丸が多く残っているが、この時計残念ながら金箔の程度がよくなかった為か部分的に補修がされているが雰囲気をダメにするものではない。

 播陽時計の指針は多くの現存する時計を見るにブレゲタイプの丸い穴の開いた物が多分オリジナルであろうと思われる。

 三台の播陽時計は振り子室のガラス絵もオリジナルの金箔二重丸が付いており状態としては良いほうの部類に属している。

 [播陽時計製造会社]

 播陽時計製造会社誕生の影に明治新政府が旧藩士達の不平不満が国内に広がっており、そうした動きやを封じ込める事と生活救済をするための雇用を確保する目的が反映されていると言われている。

 この当時、全国各地にはそうした新政府による色んな政策がおこなわれていたが実際には旧藩士の生活救済や不平不満の動きを封じ込めるまでの大きな事業は成功していない。

 明治6年(1873)、明治新政府は工部省電信寮修技科に勤務していた田中精助を当時オーストリアのウィーンで開催される世界万国博に派遣することを決定するが、これは西洋の機械製造技術を早急に習得する事が目的であった。

 適任者として選ばれたのが田中精助で彼は天才時計師と言われた「からくり儀衛門」こと「田中久重」の高弟であり、当時は和時計製作に深く関与高い技術を持ち、機械において詳しく製造技術に精通していたのを買われての抜擢であった。

 田中精助はウィーン万国博で西洋の進んだ機械製造技術を視察してその技術を習得し帰国後、明治新政府の意向に沿い国内の機関産業振興に機械製造技術担当として習得した技術を広めるために活躍していた。

 田中精助はそうした政府の意向であったかは定かでないが、旧姫路藩士の為に西洋の機械製造技術を伝授する目的で姫路にて機械製造の訓練所を設立、その名を「授産所」と命名し多くの人々に技術指導をしたとされている。

 その後、この指導を受けた「授産所」の出身者の中から旧姫路藩士、篠原右五郎、上月宗七、児島源太郎らが中心となり公債を発行し、それを資本に篠原、上月両名の名字を一字ずつ取り「原月社」として結社を設立する。

 この「原月社」、授産所にて西洋の機械製造技術を習得した者達が集まっており、明治6年明治新政府が西洋から多く輸入した先進時計を見、自分達で西洋時計を製造せんと志し試作製造に入るが四苦八苦の連続状態で中々進まなかった。

 篠原らの「原月社」は試行錯誤の連続であったと言われ時計製造は日の目を見ず、その後結社は「開成社」に引き継がれ西洋時計製造を目指すも、やはり完成の域に達したえず明治20年「白鷺時計製造会社」えと受け継がれる事となる。

 設立された「白鷺時計製造会社」の存在は明治20年(1887)、21年と短く西洋時計を製造したとされているが、文献にはたびたび出くるが実際に現物を私は見たことが無いので、ここで論評は避けるとして時計製造会社となっている事から時計を製造したのであろう。

 明治21年、白鷺時計製造会社を引き継ぎ、兵庫県飾東郡南八代村(現在の姫路市八代本町一丁目)の綿糸紡績所跡地を利用して呉服商、「矢内三次郎」らが播陽時計製造会社を設立する。

 資本金2万円、従業員30数名、動力は水力及び人力による通称「ぶり輪」と呼ばれる大きな輪を動かす原始的な機械を動力として時計製造に着手するが、当初から製造数は上がらずに苦戦結局動力の力不足が原因であった。

 この播陽時計製造会社、動力の力不足はともかく製造技術においてはアメリカ人技術者を初期から導入して指導を仰いでいる点において、同時期の時計製造会社と大きく違う点で 機械技術において高い水準にあったと思われ、その証拠に現存している時計を見ればその完成精度において高かったことが分かると思う。

 まず時計の外箱であるが四ツ丸ダルマを例にとると、機械はイングラハムに類似した立ちの低い形式でアメリカ人技術者の指導が良かったせいか非常にスッキリとした 出来栄えで技術水準の高が伺え、同業他社の初期製造にある様なバリも無く雑な造り方でない機械が入っている。

 機械室部分の木の材質や塗装の仕上げ方は、良質な木材を利用し丁寧に曲げられておりでこぼこした所が無くきれいな円形を成し、塗装も上質な仕上げでイングラハム社の外箱により近い造りになっている。

そして肝心の上蓋は轆轤できれいに引かれた曲線を描いており、下地が丁寧に造られているせいか幾つかの現存している四ツ丸ダルマを見ても隙間やひび割れが少ないようで、漆もぶ厚く塗られており他社の四ツ丸ダルマと比べても金箔の輝きが違う。

 文字盤にしても他社が余りやらなかった方式のコストが高くつき手間の掛かる、イングラハム社の文字盤をモデルとし文字盤枠の段々状のプレスを採用している点において西洋時計により近づける努力がなされている事からも完成度が高い時計に仕上がっている。

 こうした点から見ると田中精助が西洋の機械製造技術を伝授したものを、彼らが磨き上げた成果であったのかは推測するしかないが、その技術を生かした播陽時計製造会社が製造した四ツ丸ダルマは間違いなく 良質な出来栄えであった。

 この播陽時計製造会社、何も四ツ丸ダルマだけを製造していたわけではなく「八角合長型」や「八角尾長型」も多く製造しているが、四ツ丸ダルマが多く現存しているのは何故であろうか、一説にはアメリカ人技師が当時日本人の舶来思考に目を付け、アメリカ製のイングラハムに酷似させて製造した四ツ丸ダルマに力を入れたせいではなかろうかと云われているが果たしてそうだろうか。

 明治23年(1890)に播陽時計製造会社は廃業に追い込まれるのは何故だったのだろうか、製造した時計は当時として高い水準の出来栄えであり消費者にも受け入れられたはずであろうに短期間で製造生命を絶たれてしまう。

 播陽時計製造会社は良質の時計を製造したにも拘らず製造出来なくなったのはやはり販売網に欠陥があったのであろうか、明治期の時計製造会社の中でも早く良質な時計を製造して市場に送り出したのに短期間で閉鎖に追い込まれた原因は不明である。

 いずれにしても播陽時計製造会社が製造した時計は現存数が少なく、愛好者の間では人気があり一台は手元において置きたい時計のひとつでもある幻の時計である。

 閉鎖後、播陽時計製造会社の製造機械を名古屋の林時計製造会社の林市兵衛が購入したと言われているが、私が明治村に保管してある明治40年(1907)愛知県史作成時に関する資料を見たが、林市兵衛が自ら県に提出した書類には社内において検討し視察はしたが林市兵衛が購入したとする記録は無い。